マネージャー?ガチファン?いいえ、パトロン(仮)ですーガウディ展に触れてー

今年のGW、大阪旅行のついでにガウディ展に行ってきた。

この展示会の個人的ハイライトは、実業家のグエル氏の存在を知ることができたことだ。

グエル氏について、ガウディ展では、ガウディの「友人」であり、「支援者」でもあったという説明がされていた。それを見て、私はHIKARUの「妻」であり、「支援者」でもあるという立ち位置が妙にしっくりくるな〜と思えた。巨匠・ガウディを精神面・経済面から支え、多くの共同制作を経て世界的な偉業を為したグエル氏に自分を重ねてしまったのだ。

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※注 GWに「グエル氏に自分を重ねて」以下の文章を書いたのだが、この上なく身の程知らずな共感だと思ったし、本記事公開時点(2026.08.30)においても現在進行形でそう考えている。この記事を本当に公開するのか逡巡し、ボツになりかけていたわけだが、下書きから4か月を経て公開に踏み切った。その心境変化については別の記事で綴ることになると思う。
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私は、自分がどういう立ち位置でHIKARUと音楽活動をしてきたかを説明できる言葉に、これまで出会えたことがなかった。

例えば、「マネージャー」と自称していた時期がある。
が、HIKARUの仕事に関する連絡が私に届いた時、相手に返す第一声は「HIKARUに聞いてみます」だ。仕事を受けるかどうかはHIKARUの意志。私がHIKARUの仕事を選別することも、依頼人とギャラ交渉をすることも、仕事のスケジュール管理をすることも無い。これでは「マネージャー」とは言えないと思い、いつの日かそう名乗ることを辞めた。

また、「ガチファン」と呼ばれたことも、一度だけある。
「ガチファン」というのは、(当時の会話の文脈では)HIKARUのパフォーマンスが好きだから故に、ライブの出来不出来や活動方針について、HIKARU本人に忌憚ない意見(時にはダメ出し)を放つ存在として語られていた。だが私は、彼の作った音に対して「感想」を述べることはあっても、ライブの出来不出来を評価したり、活動方針に関して意見することは基本無い。そもそも、これらに対して異論が無いのだ。

ただパートナーとしてHIKARUの傍らにいて、彼が心から楽しそうにしているか否かに関心を寄せ、本人が楽しめた/楽しめなかった要因を考察し、HIKARUの意志を聴き、今後を一緒に考えている。彼が選んだ道がどうあれ、彼の意志に寄り添い応援する。ここでいう「ガチファン」というのも、何となくしっくりこない。

そこで差し当たり、シンプルに「何をやっている人なのか」を名乗れば良いのではと思い、今のところ「ライター」と「Webデザイナー」に落ち着いている。

だが、これらは、いずれもHIKARUとの関係性を語る言葉ではない。

背景説明が長くなった。

言いたいことは、ガウディ展で「友人であり、支援者である」グエル氏の存在が巨匠・ガウディの制作活動にかけがえのない存在であったと語られているのを見て、「私もHIKARUの『妻であり、支援者である』というだけで、説明として十分なのか」と腑に落ちたことが、自分にとって大きな収穫だったということだ。

そんな訳で、ガウディ展に行ってみて本当に良かったと思う。

もうひとつ良かったこと。それは「ライター」という肩書について。

「ライター」と名乗っている理由は、本サイトに載せているプロフィール等の文章、CDのライナーノーツ等を執筆しているのが私だから。歌モノの歌詞を書いたこともある。「マネージャー」「ガチファン」とは違って、実際に行っていることを表す呼称だから、嘘なく使えるのが良いところだ。

とはいっても、完全に納得しているわけではなかった。
私は、書くという行為が、私にとってどのような意味を持つのか、未だによく分からずに続けている。

書く仕事は昨年から少しずつ始めている。が、会社の仕事の一環であって、自分のスキルで仕事を取ってきているわけではないが故に、「書く仕事をしている」と胸を張って言えない感覚がある。

ただ、モヤモヤの原因は多分それだけではない。

私は、書くことが好きというわけではない。
「好き」というのは、好きかどうかを考える前に始めてしまっているものだ。漫画を読む、人間観察、哲学に耽る…人に頼まれたわけでもないのに常々勤しんでいるこれらに比べると、ものを書くというのは非常に腰が重くなる行為だ。当然、「気づけばものを書いている状況」にはこれまで一度もなったことがない。

書くことが得意かというと、そうでもないと思う。
心が動いた時、文章が「降ってくる」経験は沢山ある。だが、苦も無く書けるわけではない。むしろ、書き始めた途端、表現の拙さ、語彙の乏しさ、論理展開のまどろっこしさに嫌気がさし、何度も筆を投げ出している。

ただ、これは良いと思う表現を集めるのは好きだ。
心が動いた時には「これは書き留めて置かねば」と下書きに残すし、他人の書いた文章がイマイチだと残念に思い、とても良いと思った表現をメモしている。(頼まれてもないのに)もっと伝わる書き方を分析する。そういった感情はある。

そして、「得意ではない」という自意識に反して、会社の仕事で書いた記事に対する関係者からの評判は上々で、夫やデザイナーズはいつも「読みやすい」と褒めてくれる。CDのライナーノーツも、書いてみたら書けてしまった。ライナーノーツは、少なくともA-session #1の時は、夫やデザイナーズに依頼されて書いたわけではなかった。むしろ「ライナーノーツって何だ?」という反応を食らっても気にも留めず、思い立ってから2時間程で書き上げた(#2では、CDに必要なものと認知され、丁寧に作りこんだ解説文になった)。

・・・それで、結局、何が不満なのよ?胸を張って「得意です!」と言えば良いじゃないの。とツッコミが入りそうだ。

たぶん、「いい文章ってのはこんなもんじゃないのよ」と自分で自分に牽制しているのだと思う。
自分が大切に集めてきた言葉たちは、もっともっと力を持っている。だから、自分の文章力が未完であるという思いが非常に強い。自分の書く文章に対する期待が、読まれているという自意識が、高すぎるとも思う。

ガウディ展に話を戻そう。
この展示で感動したことは本当にたくさんあったが、
「完成を目指すことと、つづけていくことのあいだには、どんな違いがあるのか」
という問いが一番印象的だった。

「未完である」という意識は、続けていく意志と同義なのではないか。
同じ物事でも、「完成していない」と捉えていれば完成を目指してやり続ける意志になるし、「これで完成」と捉えれば、そのことには終わりがくる。そういう意味では、あることを「完成した」と思うことは、そのことを自ら終わらせる意志になる。「完成」のその先には、そのことをやり続ける意志がもはや無い。

私にとっての「書くこと」も、つまりはそういうことなのだろう。
好きか?得意か?への答えは棚上げにしたまま(いわゆる「やりたいことの見つけ方」に抗いながら)、自分の文章力が未完であるという感覚だけを足場に、私はこれからも書く人生を生き続ける。

「適性なんぞ知らんけど、続けるわ」という何とも私らしい意志にも出会えた、いい旅だった。

HARUKA

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